綾永シアンにとって、夜の眠りは再生の儀式だった。
夜の眠りとともにけものがやってきて、その身体を食べていく。
けれどその瞬間こそがあたしの本当の姿なのだ、と彼女は思う。
けものは悪魔のような容貌で、その牙を皮膚に埋め込む。
そうして、朝目覚めるたびに死んでいく。
シアンにとって、朝の目覚めは死の儀式だった。
世界の終わりはあたしの終わり。
それはたとえば夢のように。
綾永シアンにとって、その響きは世界を変革する鐘だった。
あのひとのその声音は、シアンの世界を塗り替えてしまった。
音も、かたちも、読みも、意味も、すべては宙ぶらりんな幻想。
でもその瞬間、彼女の名前は自身の魂に帰着した。
綾永シアン――あのひとがそう呼んでくれたから。
それはまるで、自鳴琴の外れていたピンが本来の音を奏でたような、そんな瞬間。
いつまでも残っていた違和感が、すっと薄れたような瞬間。
神様に逢うということ。
福音がもたらされるということ。
奇跡に巡り会うということ。
それをひとが救いと呼ぶなら、あたしは救われたのだ。
親があたしにかけた呪い。最初で最後の拭えない呪い。
それが――少しだけ薄らいだような錯覚。
綾永シアンにとって、その姿は何よりも神々しかった。
このひとであればすべての霧を晴らせるだろうと思えた。
すべての悪夢を退かせるだろうとさえ思えた。
だからきっと、このひとに愛されれば、あたしの悪夢も消えるはず。
毎夜の本当のあたしを食い尽くすけもの。
あたしの中心を食い破るけもの。
あたしを支配するけもの。
夜の静寂が、けものの息遣いを呼ぶ。
綾永シアンにとって、夜の眠りは再生の儀式だった。
夜の眠りとともにけものがやってきて、あたしの身体を食べていく。
それは、ぐらぐらとゆれる林檎の上でガラスの小瓶に花を生けるようなもの。
真っ暗な海に投げ込んだナイフを探すようなもの。
本当のあたしが、あたしを嗤っている。
――あなたは嘘をついている。
そう、あたしは嘘をついている。
でもその嘘は、あなたが――本当のあたしがついたもの。
だからあたしじゃない。
だからあたしはけものに食べられる。
けもの。
あたしを食い尽くすけもの。
あなたになるための、あたしを食い尽くすけもの。
そうやって綾永シアンは寝台に身を委ねる。
天井に隔てられて、星は見えない。
真っ暗な夜。真っ暗な眠り。
そうして彼女は目を瞑る。
けものが来て、本当のあたしが入れ替わる。
必要とされるあたしに。
世界の終わりはあたしの終わり。
それはたとえば夢のように。
夜の終わりはあたしの終わり。
それはたとえば灯りのように。